質問

○13番(山本あつし君)  それでは、通告に従って一般質問をさせていただきます。先ほどの深沢議員の一般質問と私のかぶるところというか、つながっているところもあるというふうに思っていますので、その辺も触れながら質問させていただきます。
 まず最初に、全般的に通告に従って項目を基本的に述べたいと思います。ふるさと歴史館の事業等についてという内容です。

 まず概略について。


 1、首都圏における武蔵野地域を研究対象とした武蔵野学関連の動向として、他の博物館等施設の研究状況や、それら施設との連携の可能性について伺っておきたいと思います。後のところで触れますが、角川が所沢への本社移転に伴って、角川武蔵野ミュージアムというのを開設するということが決まっています。それの流れで、本屋さんに今行ったら『武蔵野樹林』という雑誌が出ています。あれは季刊なのですけれども、武蔵野のことについて幅広く取り上げて、結構おもしろい雑誌も出ていて、この動きはしばらく続くだろうというふうに考えています。多少の関心の盛り上がりは出てくるのではないかというふうに思っていますので、その辺と、他の自治体等の動きもあると思いますので、それらとの連携の可能性について、まず伺っておきたいと思います。
 具体的な内容です。

(2)縄文時代から中世に至るまでのことについて。


 1、縄文時代における武蔵野地域及び武蔵野市域が、どのような状況で、どのような暮らしが営まれていたのかということについての最新の調査研究成果を伺っておきたいと思います。ここでいう武蔵野地域、武蔵野市域というのは、これは区別をしておかなければいけないのですが、武蔵野市域というふうに限ると、いわゆる武蔵野学の範疇というのは非常に狭いものになってしまうと思います。基本的に、いわゆる武蔵国全体を対象としたいろいろな議論をしながら、さて武蔵野市域においてはどうだったのかということが大きな議論のコンセプトになるというふうに思っていますので、この2つは、あえて2つ区別して、両立させながら議論を続けていきたいと思っています。このことについて、縄文のころの最新研究について、一定の内容は武蔵野市史、歴史です。この本に載っていますけれども、新しい研究成果もあると思いますので、その辺について伺っておきたいと思います。

 2番、井の頭池遺跡群で暮らしの痕跡が確認されているが、それ以降、江戸時代になり開拓が始まるまでの長い間、武蔵野市における歴史の事実というのは明らかにされていない部分が大変に多いです。いわゆるこの空白期間についての最新の調査研究成果を伺っておきたいというふうに思います。これは市内にも人が住んでいたのだという人もいるし、いや、どうだろう、確認できないという人もいて、なかなか難しい問題です。また、武蔵野市域が全体としてどのようなものであったのかについて、概略を伺っておきたいと思います。


 大きな3番です。武蔵野市のまちの成り立ちについてのふるさと歴史館の調査研究について伺いたいと思います。


 小さな1番、江戸時代、新田開発の東端地域に位置していた4カ村の、都市としての江戸に対して担っていた役割についての見解を伺っておきたいと思います。

 2番、玉川上水開削の地理的条件についての見解を伺います。

 3番、市域を東西に横断する五日市街道、また近隣の甲州街道、青梅街道について、それぞれの役割、特徴について伺っておきたいと思います。

 4番、4カ村における新田開発と現在の武蔵野市域の市街地の特徴との関連を伺っておきたいと思います。

 5番、明治22年、1889年に4カ村が合併し誕生した武蔵野村命名の由来を伺っておきたいと思います。

 6番、甲武鉄道、中央線敷設のルート選定の理由はどこにあったのか、見解を伺っておきたいというふうに思います。

 これは僕の意見ですが、ここまでが武蔵野市の第1世代だというふうに思っています。基本的なまちの骨格、ベースとなるところが大体形成されたのがここまでです。この辺までは人口の急増はなかったということも含めて、次、7番です。関東大震災の復興に伴う東京市街地の郊外への拡大がどのようになされたのか、見解を伺っておきたいと思います。

 8番、中島飛行機武蔵製作所の立地の理由、そしてそのことが武蔵野市域へもたらした影響がどのようなものであったかを伺っておきたいと思います。

 9番、現在の武蔵野市域市街地形成の歴史的背景をどのように総括しているのかを伺いたいと思います。この関東大震災以降が、僕の理解で言うと、武蔵野の第2世代形成の時期だというふうに思います。これは今の規模に人口がなるまでの間、およそ70年ぐらいの間だと思いますが、この時期が大体武蔵野の、いわゆる市としての本格的な都市形成の時代だったというふうに思っています。ここで形成をされたものが今の武蔵野市を基本的につくっている大きな要素だというふうに思っています。それは、以下述べます。


 大きな4番、市政における共通理解の深化、展開、他事業との関係について。


 1、武蔵野地域及び武蔵野市域についての調査研究が、昭和45年に刊行された武蔵野市史に比べて大きく発展しているものと考えるが、その反映の今後の見通しを伺っておきたいと思います。

 2番、現在の市水道事業に至るまでの上水の歴史と同事業史の取りまとめの取り組みについて、伺っておきたいと思います。

 3番、武蔵野市民科との連携について伺っておきたいと思います。

 4番、図書館との連携について伺いたいと思います。

 5番、市の文化にかかわる計画や事業との連携について伺っておきたいと思います。

 6番、緑の保全、更新を行う事業との連携について伺いたいと思います。

 7番、エコプラザ等環境事業との連携について伺います。

 8番、所沢に本社を移転した角川により2020年に開館される角川武蔵野ミュージアムなど民間の取り組みや、多摩地区を初めとした他市の取り組みとの連携について伺いたいと思います。所沢市に新しくできるこの角川武蔵野ミュージアムは、当然ですが所沢市との連携のもとに行われるということのようです。ただ、いわゆる最近はやりのPPPとかということではなくて、所沢市が条件をつけて、何かの土地を角川に売却したと。売却の際にその条件をつけて、連携をとっていくということで今動きが始まっているというふうに聞いています。どれぐらいのものになるかというのはまだわかりませんが、1つの取り組みとして、おもしろいと思います。

 大きな5番と6番は、ふるさと歴史館の機能を語る上で欠かせない大きな問題について触れておきたいと思います。

 5番、公文書館機能について。

歴史館の公文書館機能について、開館以来の活動、現状と成果、今後の課題について伺っておきたいと思います。

 6番、中島飛行機武蔵製作所関連資料調査について。

中島飛行機武蔵製作所関連資料調査について、開館以来の活動、現状と成果、今後の課題について伺いたいと思います。この分野については非常に大きな前進があり、見るべき成果があったというふうに私は考えています。これは大変大事にすべきだと思いますので、ここについて触れておきたいと思います。

 大きな7番、最後に、歴史理解の共有について。

 1、市域のありようは、経済、生活圏全体の動向と不可分である。首都圏における多摩東部エリアの住宅都市としての形成の歴史として、時間軸と立地条件の両面から改めて見直し、理解し、共有することが必要と考えるが、見解を伺いたいと思います。

 2番、武蔵野市及び吉祥寺商業地域のありようは、日本の経済発展に伴って成長した中間層の生活や意識の反映として見るべきではないかと考えるが、見解を伺いたいと思います。ここのところが先ほどの深沢議員の一般質問と重なってくるところです。

 例えば、武蔵野市で今のようなコミュニティということが、政策としても、それから住民の地域のあり方としても持たれるようになったということの背景に、町内会を復活させなかったということがあります。GHQの政令で町内会が禁止されて、52年に政令が廃止された後、武蔵野市民は町内会を復活させる道を選ばなかったという、これは非常に大きな事実だというふうに思っています。それは逆に言うと、既にその時点で必要がなかったということでもあったというふうに僕は思っています。つまり、僕なんかの田舎出身の考えで考えれば、町内会というのは要るのです、村を維持していくためには。生活あるいは生産のためには地域組織というのは必要なものなのですが、武蔵野市民にとっては、既に1950年初頭の段階でそういうものが、どちらかというともう要らないよという判断をするような状況に置かれていたということだと僕は思っています。つまり、非常に早い段階で都市化、それから、それは資本主義化というふうに言ってもいいと思うのですが、進んで、自立した市民が生まれていたということだというふうに思っています。

 これが始まったのは関東大震災からです。関東大震災以降の人口の急増に伴って、いわゆる都市的居住が急速に拡大したことが、この戦後の、1955年が高度成長の開始というふうに言われています。その時期には既に武蔵野市は、そういう市民がそういう意識は持って生活をしていたということが挙げられると思います。そして、さっき深沢さんが言われた1971年の後藤市政の長期計画、55年が高度成長の始まりで、71年というともう転換期に入っていますけれども、71年には既に武蔵野市は市民自治を掲げて、長期計画を市民参加で策定するというところに踏み込んでいるわけです。

 こういうふうに、非常に早い市民意識の高まりというか、前進というのがあったということは事実で、この第2世代の活動が今の武蔵野市の価値観や意識の形成をしているというのが僕の意見です。この辺は市の見解も伺いたいと思います。

 3番目、歴史を理解する上で、自然と向き合って生産・生活をし、社会を形成してきた、いわゆるかつての暮らしを理解することの重要性について、見解を伺いたいと思います。これはもっと昔の話ですけれども、今これは水の問題、それから食料の問題、持続可能性の問題等々で大変大きく見直されてきている。SDGsなんかとも関係してくる部分があると思いますので、ここを理解するというのは大変大事になってきていると思いますので、見解を伺いたいと思います。

 4番目、歴史は必然と偶然の所作によって形成されてきたという基本的な視点を全市的に理解し、共有することが大切なことだというふうに考えています。見解を伺いたいと思います。つまり、いろいろ振り返ってみると、なるべくしてこのまちはこうなったということと、たまたまこうなったということは、まざり合っていると思っています。誰がどうやっても絶対にこういうふうなまちになったなということは言えません。偶然が作用している部分もあります。しかし、世界や日本の大きな発展の中で、不可避的に武蔵野市が現在のような住宅都市を形成したということも言えるというふうに思っています。その辺のまざり合いについて、やはりこれはきちんと理解をする。逆に言うとどういうことかというと、誰かが偉かったとか、誰かの個人の実績によってこれができたとか、そういうことではないだろうというふうに考えるべきだと思います。ですので、この辺ははっきりさせておく必要あると思っておりますので、見解を伺っておきたいと思います。

 5番、歴史理解の大切さを鑑みると、武蔵野ふるさと歴史館の事業の継続・発展、全市的な位置づけはとても意義があるものと考えるが、見解を伺っておきたいと思います。ふるさと歴史館は、お金にならない事業だと思います。お金にはなりません。でも僕は、そういうお金にならないこと、人の価値観とか歴史に対する考え方とか、そういうことを大事にするということは、この自治体にとっては大変大事なことだというふうに思っていますので、見解を伺っておきたいと思います。
 以上です。

答弁(松下玲子市長)

○市 長(松下玲子君)  山本あつし議員の一般質問に、順にお答えしたいと思います。私に御質問いただいた部分は4点かと思います。

 まず、(4)の2番目です。現在の市の水道事業に至るまでの上水の歴史と同事業史の取りまとめの取り組みについてです。本市の水道事業は、昭和26年12月に事業認可を受け、昭和29年9月に第1浄水場を竣工し、吉祥寺地区へ水源を地下水とする水道水の通水を開始したことに始まります。その後、本市では急激な人口増加が起こり、給水事業も急速な拡大が求められ、都からの臨時分水が、本格的には昭和43年6月から開始されました。また住環境の悪化などもあり、昭和46年に、建築物の高層化に対応する、全国でも初めての宅地開発等指導要綱を定めました。この要綱に基づく指導に従わなかった開発事業者に対し、まちづくりのための苦渋の決断として給水を拒否したため、水道法に基づく訴訟に発展し、最終的に最高裁まで争いましたが敗訴するなど、本市のまちの発展と密接に関係しながら水道事業を行ってきた歴史があると考えております。

 平成24年度以来、都営水道への一元化を目指しており、現在その過程にありますので、今後の都営水道一元化の動向等も含めて、本市がまちづくりの一環として問題を投げかけながら実施してきた水道事業の歴史について、武蔵野ふるさと歴史館とも連携しながら、後世に残すためにもしっかりとまとめていきたいと考えます。

 次に、(4)の5番目についてです。市の文化にかかわる計画事業との連携についてです。平成30年11月に策定をしました武蔵野市文化振興基本方針では、武蔵野市の成り立ちにも触れながら、過去から現在に至るまでのさまざまな市民の自主的な活動によって育まれた市民文化があり、それを土台として都市文化が形成されてきたことを記述しております。武蔵野ふるさと歴史館との連携も視野に入れながら、今後の文化振興の取り組みを進めていきたいと考えます。

 次に(4)の6番目、緑の保全、更新を行う事業との連携についての御質問です。昭和46年に策定をしました第一期長期計画の重点事業として緑のネットワーク計画を掲げて以来、積極的に公園緑地の拡充や緑の保全、更新を行っております。昭和48年には武蔵野市民緑の憲章を制定し、緑は市民の共有財産という理念のもと、保存樹木・保存樹林などの制度を定めるとともに、歴史的価値のある樹木を市指定の天然記念物にするなど、多くの緑を保全してまいりました。また、小金井桜や玉川上水といった国の名勝史跡の保全等についても、緑のまち推進課とふるさと歴史館が連携を図り、対応しているところです。緑の事業については引き続き、地域の歴史的背景も考慮しながら進めていきたいと考えております。

 次に(4)の7、エコプラザ(仮称)と環境事業との連携についての御質問です。エコプラザ(仮称)として再利用する旧クリーンセンターの建物は、周辺にお住まいの方々との3年、75回に及ぶ討論など、市民参加の積み重ねによって昭和59年に建てられました。30年後のクリーンセンター建てかえに当たっても、市民参加を継承した周辺整備協議会の議論は4期9年にわたっております。エコプラザ(仮称)の建物には、こうしたごみと市民参加の歴史、議論、成果、かかわった方々の思いなどが詰まっていることから、これらを市民や市民団体、企業など、さまざまな主体と共有し、理解を深めるところから始め、環境の大切さや多様な環境問題の関連性などへと関心を広げ、環境に配慮した行動や活動へとつながるようにサポートをしてまいります。また、ことし3月に決定をしたエコプラザ(仮称)管理運営方針では、環境分野の事業に限らず、市や財政援助出資団体などが行う子どもや子育て、自然体験、文化、教育、福祉、生涯学習などさまざまな分野の事業と、環境切り口に連携実施することを想定しております。ふるさと歴史館とも事業連携など、さまざまな連携が考えられるため、他の分野の事業とともに、連携のあり方や実施時期などについて今後協議を行ってまいります。

 他の質問については教育長からお答えをいたします。

答弁(教育長)

○教育長(竹内道則君)  では、御質問の内容についてお答えします。縄文時代、1万5000年以上前から現在までの長い期間にわたる御質問ですので、ある程度煮詰めたような答弁になると思いますが、御容赦いただければと思います。

 最初に歴史認識について、時代区分について山本議員からお話がありましたが、旧石器時代を含めて、現在までの間で、私は2つの大きい要素があると思っています。1つが井の頭池の湧水であるとか、ちょっと時代は飛びますが、近世に入って4カ村ができて玉川上水が引かれた。そしてその後、千川上水の分水によって用水として使ってきたというような、そういった水の利活用です。恵まれた地勢を生かしたそういった要素が、その歴史の中にあると思います。もう一つが、これは当事者の言葉で聞いたものですけれども、来たり者を受けとめてきたという歴史。これはまちの器量に属するかなと思うのですが、関東大震災の避難の方たちであるとか中島飛行機の軍需産業に集まった方々とか、それから吉祥寺の再開発以降、それぞれにそういうような要素があったと思いますので、そういったまちの器量の要素、この2つが大きいことかなと思っています。その上で答弁を申し上げます。

 まず、他の博物館等施設の研究状況や、それらの施設との連携の可能性のお尋ねでございます。武蔵野地域に関する研究は、各種の博物館において多種多様にございますので、今後の各種の協議会や博物館等と連携を図ってまいりたいと思います。

 次に、縄文時代における武蔵野地域及び武蔵野市域がどのような状況でというような、最新の調査研究成果についてのお尋ねでございます。武蔵野地域及び市域では、井の頭池を取り巻く台地、斜面地、低地部において多くの遺構、出土遺物が確認されています。縄文時代草創期には移動による生活が中心でありましたが、縄文時代早期ごろから縄文土器の普及率が上がり、狩猟採集だけでなく、植物資源を利用し、定住化が始まりました。隣の三鷹市でも同様に集落が展開されて、水場遺構が確認されております。最近では、遺物に付着した炭化物の測定により、科学的な実年代の分析が可能となっております。ふるさと歴史館の常設展示や、昨年も企画展示において、その分析した資料の公開を行っております。日本で2番目に古い縄文式土器が平成16年の出土だったと思いますけれども、そういったものの展示をしたりしております。

 次に、先ほどの空白期間についての最新の調査研究成果、また武蔵野地域がどのようなものであったかのお尋ねでございます。武蔵野市域は、平安時代以降になると、井の頭池周辺で地下式の坑、地下室です――や、板碑が発見されておりますが、人が住んでいたかどうか断定できる証拠は発見されておりませんでした。生活様式の変化に合わせて居住エリアが変化していくことにより、必ずしも池の周りが居住地として利用されてはいないことがわかっております。吉祥寺通り沿いに12世紀に土地を区画すると考えられる遺構が、井の頭池周辺には地下式坑が発見されていますが、必ずしも活動エリアが居住エリアであるということは言い切れないと思います。また近隣の三鷹市では、室町時代のようですが、中世の屋敷跡が確認されております。

 4カ村の都市としての江戸に対して担っていた役割についてのお尋ねです。吉祥寺村や西窪村は江戸の住人が移住し、開拓したことが、記録や資料に記されております。江戸の大火とそれによる都市江戸の整備の過程で、吉祥寺村は江戸牛込吉祥寺に住んでいた浪人たちにより、西窪村は江戸西久保城山町の農民たちにより開かれたことが記録や資料からわかっております。村の成り立ちから、現在の武蔵野市域は江戸と深い結びつきがあったということでございます。また、市域の村々は畑作地域で、畑でつくられた作物を江戸に、江戸からは下肥を得ており、生業という面からも市域の村々は江戸とかかわりを持っていたというものでございます。

 次に、玉川上水掘削の地理的条件についてのお尋ねです。玉川上水は、現在の立川市付近からは武蔵野台地の高い場所を通っております。玉川上水はその自然地形に基づき、江戸時代の村の境にもなっており、それが現在の武蔵野市と三鷹市の境界になっております。

 五日市街道、甲州街道、青梅街道についての役割、特徴についてのお尋ねです。江戸から西に向かう道として甲州街道、青梅街道、五日市街道があり、名称やルートはいわゆる甲州街道とは異なるかもしれませんが、江戸期以前から甲斐国と武蔵国府中や江戸を結ぶ道があったことは推測されております。青梅街道も江戸期以前からあった可能性はありますが、都市江戸を建設する際、奥多摩地域の資源、これは石灰や木材のようですが、それを運搬するに開設されたことが資料から明らかになっています。五日市街道も奥多摩地域の、やはり石とか材木などの資源を江戸に運搬するために、青梅街道の脇道として開設された可能性がございます。武蔵野市域には五日市街道が東西に通っており、江戸後期の小金井桜見物の紀行文などを見ると、江戸の人々は青梅街道、五日市街道経由で小金井桜の散策もしていたようです。五日市街道が、市域の村人の江戸との往来や、江戸の人々の武蔵野との往来のルートだったということがわかると認識しております。

 次に、4カ村における新田開発と現在の武蔵野市域の市街地の特徴についてのお尋ねです。新田村落の特徴として、街道を中心とする短冊形の地割りとなっていることでございます。江戸前期の新田開発により開村した吉祥寺村、西窪村、関前村は、いずれも五日市街道を間口として南北に向かって屋敷地と畑地が伸びる短冊型の地割りをしており、それの形は現在の市域の地割りにも残っているところでございます。

 武蔵野村命名の由来についてです。武蔵野市百年史によると、4カ村の合併に当たり、一番大きい村、大村の吉祥寺村の名をつけるところであったが、異論百出の末、武蔵野原の村であることから、武蔵野村と名づけられたとあります。正確なところは不明なため、今後の研究を待つところでございます。

 中央線ルートの選定の理由についてです。鉄道が通ることによって、蒸気機関車のばい煙による火災の危険や家畜の飼育に影響が出る等の理由により敷設反対運動が起こり、予定されていたルートではなく現在のルートに定まったという話を総称して、鉄道忌避伝説と呼ぶようです。ある研究者の調査結果によると、これらの言説には根拠が確認されていないというところでございます。甲武鉄道についても鉄道忌避説が多く語られていましたが、これまで多くの研究者が調査等を行ってまいりましたが、現在もそのルート選定の理由は解明されていないものです。新たな資料が発見されれば事実がわかってくるものと考えております。

 関東大震災の復興に伴う東京市街地の郊外への拡大についての見解でございます。関東大震災の復興に伴い東京は拡大し、近隣近郊地域での宅地化が進行いたしました。特に吉祥寺東町など東部では住宅地化が進みましたが、西久保付近の人口増加が進んだのは軍需工場地帯化の進んだ昭和10年代でございました。

 中島飛行機武蔵製作所の立地の理由と影響でございます。中島飛行機株式会社がなぜ武蔵野の地を選んだのかという選定理由は、市に文書が残されておりません。今後の調査研究が必要であると考えています。武蔵製作所長で佐久間一郎氏の伝記に、工場敷地を選定した理由は陸軍所沢飛行場に近く、東京製作所とも青梅街道でつながっていたからであるとありますが、正確なところはよくわかっておりません。武蔵野製作所、多摩製作所、後の武蔵製作所ですが、開設後は、両方の製作所へ通勤する労働者が利用する三鷹駅は北口の設置が行われ、通勤経路の道路等の整備が進みました。市域の交通インフラ整備については一定の寄与があったと考えられます。

 武蔵野市街地形成の歴史的背景についてのお尋ねでございます。現在の武蔵野市の市街地は市街地区画からすると江戸期の新田開発によ地割りにさかのぼることができます。これは先ほど述べたとおりでございます。また、関東大震災後の市内東部の宅地化や軍需工場の開設に伴う人口増加など、さまざまな歴史的な要因により市街地化が進行しました。歴史は過去の史実を明らかにするとともに、その史実にいかなる意味があるのか考えることは大切だと思っております。史実は変わることはございませんが、史実の解釈は歴史を見る視点により変わります。そしてその解釈は時代や社会状況によって変わってくると考えております。総括するという1つの答えを出すことは重要ですが、歴史はさまざまな角度から見ることが大切で、今後も調査研究を進めてまいりたいと考えております。

 武蔵野市史以降の調査研究の反映についてのお尋ねでございます。武蔵野市史の刊行後、さまざまな研究が進み、新たな発見もなされてきました。武蔵野歴史館では市の歴史・文化の調査研究を行っていく中で、日々の調査成果の一部を武蔵野ふるさと歴史館だよりとして刊行し、企画展示などで発表しております。このような日々の調査研究が今後の市史編さん事業につながっていくものと考えております。

 武蔵野市民科との連携についてのお尋ねでございます。現在検討している武蔵野市民科は、武蔵野市の地域理解を深めることを目的としたものではなく、自立、協働、社会参画という資質能力を育み、市民性を育成していくことを目的として行う教科横断的な探究学習でございます。探究学習を行う際の課題については各学校が設定していくことになりますが、課題によってはふるさと歴史館との連携協力が必要となることもあり、その間の連携が出てまいると認識をしております。

 図書館との連携についてのお尋ねです。中央図書館地下書庫で歴史館所管の古文書を保管し、その古文書を利用した講座も開催しております。また中央図書館には地域資料のコーナーがあるなど、相互の協力関係を築くことが重要であり、両者による定期的な意見交換の会議を行っているところでございます。

 民間の取り組みや、多摩地区を初めとしたと他市の取り組みとの連携についてのお尋ねでございます。角川書店が季刊『武蔵野樹林』を発行し、角川武蔵野ミュージアムの開設に取り組んでいることは、委員からの御紹介もあり、承知をしているところでございます。このような民間の取り組みについては今後も動向を見守っていき、連携の可能性について検討していきたいと考えております。
 歴史館の公文書機能についてのお尋ねでございます。公文書専門員による専門的判断と行政職による判断、この2つのフィルターで歴史公文書の移管、廃棄等を行い、市民や研究者、市役所からの利用請求にも応えているところでございます。また、歴史公文書による企画展の開催や歴史公文書を展示に生かすなど、さまざまな公文書の利活用を行っております。課題としては、収蔵文書の整備を促進することが挙げられます。

 次に、中島飛行機武蔵製作所関連資料調査についてのお尋ねです。平成27年と28年に米国の国立公文書館において保存されている中島飛行機武蔵製作所に関連する文書調査をし、平成29年度にこの調査結果を反映させた企画展を開催いたしました。また市報で、中島飛行機関連資料をお持ちの方への寄贈の呼びかけをし、企画展を見に来られた中島飛行機にかつて勤められていた方々に話を伺う機会も多数あったようです。平成30年度は企画展に加え、中島飛行機関連の翻訳や日本国内の国公立の公文書館施設等を対象とした調査も行いました。今年度も翻訳等を行った資料で企画展を実施する予定となっております。

 次に、市域のありようについて、時間軸と立地条件の両面から考えてのお尋ねでございます。先ほど申し上げたように、市域のありようは時間軸や地理的な要素が複合的に作用して形成されたものと認識しております。江戸時代、武蔵野市域は、江戸近郊の農村として野菜等を売り、下肥をもらうなど、大都市江戸と深いかかわりを持っておりました。また関東大震災以降の人口増加、中島飛行機製作所関連によるまちの変化など、武蔵野は大きな時間軸の中で、多摩東部で最も都心に近いまちとしての立地条件を備え住宅都市として発展してきた歴史を認識し、それを共有することは重要と考えております。

 武蔵野市及び吉祥寺商業地域のありようについて、中間層の生活や意識の反映としての関連とのお尋ねでございます。高度経済成長期以前の武蔵野は農家を中心とする地主層が大きな役割を果たしておりましたが、高度経済成長期以降は中間層が増加し、吉祥寺地区において中心的存在になりました。まちの変化にはさまざまな要因がありますが、中間層の生活様式や意識の影響を受け変貌していったと考えることもできると思います。

 かつての暮らしを理解することの重要性についてのお尋ねです。歴史館開館以来、1月中旬から、学校教育との連携事業の一環として武蔵野市域の昔の暮らしをテーマにした企画展示を行い、市立小学校3年生を対象とした社会科見学の受け入れを行っております。かつての暮らしを伝えることにとどまらず、道具の変遷とともに人々の生活が変わってきたことを伝えることも重要なことと考えております。

 歴史の中の必然と偶然のお尋ねでございます。現在の武蔵野市という行政は、すぐにこの形に、現在のようなありようになったわけではございません。そこに住み、働いてきた人々の、先人たちの積み重ねと考えられます。武蔵野ふるさと歴史館に公文書館機能がございますが、今ここで生活している間にも、私たちの後世にさまざまにその蓄積が残っていくわけでございます。史実は変わることはございませんが、史実の解釈は歴史を見る視点により変わっていくと考えております。史実の解釈によって偶然が必然となることもあると考えます。必然と偶然によって営まれてきた歴史を理解するということは全市的に重要なことであり、その役割をふるさと歴史館が担っているものと考えております。

 武蔵野ふるさと歴史館の事業の継続発展、全市的な位置づけについてのお尋ねでございます。史実や文化財を解釈し、歴史として共有し、次代に伝えていくということは、市民のアイデンティティの醸成など、多面にわたって有益なことと考えております。歴史を理解するためには、地域に伝来してきた資料や伝承など、有形無形のいわゆる文化財を残し、後世に伝えていくことが大切と考えております。資料や文化財がないということは、その地域の歴史やアイデンティティが失われていくということとも捉えられると思います。また、国の国宝や重要文化財は我が国にとってとても貴重なものですが、市民にとっては身近な文化財も大切なものでございます。こうした点から、武蔵野ふるさと歴史館の存在と活動は大変意義のあるものと考えております。
 以上でございます。

再質問

○13番(山本あつし君)  ありがとうございました。何というか、きちんとした御答弁をいただいて、大変うれしかったです。

 それで2点、まず、逆に指摘をされたと思われるところについて伺っておくというか、お返事をしておきたいと思います。

 1つは、冒頭に教育長が言われた、いわゆるまちの器量という問題です。それは、非常に簡単に言いますよ、第1世代、第2世代と言いましたけれども、第1世代が第2世代を受け入れて、一緒にまちをつくってきたというところの大切さということだというふうに思います。そこは大事に考えるべきだと思いましたので、きちんと受けとめさせていただきたいと思います。

 それから2番目に、歴史の総括というふうに僕も言葉を使ったのですが、歴史を見る、歴史の事実は変わらない。だけれども、それを見る見方、それから評価の仕方というのは変化するということです。これは、今いろいろなことが続けて議論になっています。例えば天皇制の問題、それから武士の時代がどうやって始まったのかと。天皇制の問題との関係で言えば、いわゆる古墳時代から日本の国家形成、日本という国になるまでの間のいろいろなこととか、果ては古墳の名前の問題とか、どんどん変化していっていることは事実だというふうに思います。

 これは確かに、歴史の事実は変わらないけれども、それに対する見方、評価、考え方は常に新しくなる。新しくなるだけでもなくて、意図的にそれを一定の見解で落ち着かせたいというか、基本的に歴史の記述というのは、時の権力を持っている人が自分たちの正当性を証明するために過去のことを記述したという場合が多いわけですけれども、そのことの、事実としてそうだったということと、それを評価し直していかなければいけないということはあると思っています。それは確かに不断の作業が続いている最中だというふうに思っています。ですので、そういう意味でもふるさと歴史館の事業含めて、学芸員さんの活動も含めて大切にしていきたいところです。

 これは、だから僕は余り、歴史館の来館者数が何人であるとか、それからあそこの会議室を使ったのが何件であるとか、そういう評価ではないだろうというふうに思っています。何を学び、何を提供し共有したのかということが実は一番大事な問題だと思っていますので、そこは確認をしておきたいと思います。

 それで再質問なのですが、まず水の問題について、この大切さが強調されたというふうに思います。後藤市長の時代に宅地開発指導要綱をつくった、その際にやはりマンションの開発との関係で問題になった。完成したマンションに水道を供給することを市が拒否して、水道管にセメントをぶち込んだわけです。それが裁判になり、最高裁で敗北をしたと、これは非常に大きな事件だというふうに思っています。いわゆる急速な都市化に伴う市街地開発の問題と、それから水です。水が足らなかったということです、武蔵野は。これはまちづくりの上で、長期にわたって非常に先人たちが苦労をされた歴史があります。このあたりが凝縮してあの事件にはあらわれているのだろうというふうに思っています。

 今回、水道事業が、都移管を今目指しているわけですけれども、それをやる際にも、あるいはやった後にも、そのことの経緯というのはやはり大切にしていきたい、いかなければいけないというふうに思っています。ぜひ歴史館とも連携をして、1つは水道の歴史をきちんと記述をして残していくということ。それから、今伺っていて思ったのですが、やはりそういう事実について、本を出すということだけではなくて、一度やはり何かの形でメッセージを出す企画みたいなものをきちんとやるということも大事ではないかと思っています。もし、もう少しその辺で突っ込んだ御答弁があれば、伺いたいと思います。これが1点目です。

 2番目は、都市の基盤、第1世代の都市基盤の問題としては、玉川上水がここに引かれたということの理由は明確であると。ただ、武蔵野村という命名の根拠はよくわからないと。それから中央線がここに引かれた理由も実はまだよくわかっていないと。それから中島飛行機がここに立地した理由も実はよくわかっていない、つまり検証されていない。この辺のことというのは非常に興味深いと私は思っています。クエスチョンはクエスチョンとして大事にしていただいて、これはまちづくりに、武蔵野の都市基盤を形成する上では決定的な要素ですよね、この3つは。でもこれがなぜそうなったのかというのはよくわからないということは、非常に大きな問題だというふうに思っていますので、なお疑問符を持ち続けていただきたいと思っています。これは御答弁は要らないかな。

 それから、3番目の総括の問題についてはさっき言いましたので、改めて触れません。

 4番目、まちの器量という問題です。それから中間層のまちづくりに果たした役割ということについて、これはできれば市長に、さっきの深沢さんの御質問も含めて、後藤市長の時代に、そういう意味では、僕は、今の市民自治や長期計画の基本的な骨格、それから宅地開発指導要綱も含めた水道事業やまちづくりの基本的なスタンス、立ち位置というのかな、それから吉祥寺のまちづくりというのが、大体骨格が形成をされたんだよということを、実は歴史資料館に伺っていろいろな話を聞きながら教えてもらいました。

 土屋時代というのは、その成果をもとにして、非常にお金が潤沢にあった時代ですので、その上に花を咲かせたというか、そういう時代だったというふうに総括できるのではないかと思っています。一番の原点である市民自治、それから市民が市政をつくっていく、市民の活動であるとともに市民の意識が市政をつくっていくという点は非常に大事な問題で、これは実は非常に歴史が古いんだということだと思います。この辺をこれからも大事にしていっていただきたいというふうに思っていますので、そこは改めて市長のお気持ちを伺っておきたいと思っております。
 以上です。

松下市長


○市 長(松下玲子君)  山本あつし議員の再質問にお答えをしたいと思います。

 まず水のところで、給水拒否事件の部分だったり、本を出すなどといった御質問だったと思うのですけれども、幾つか既に本は出ておりまして、また武蔵野市史の中でも、この事件については記述がなされております。その上で、御質問にありました武蔵野市の水道事業史の取りまとめという観点です。水道事業を後世に、この歴史的な経緯も踏まえて、今後進んでいく道、そして後世に残すためにも、これはまとめていきたいという考えを持っております。

 そして、市民自治についてでございますが、御質問といいますか、御指摘いただいたように、後藤市長時代から続いてきた、そして先ほど深沢議員の質問の中でも、第一期の長期計画の策定方法から連綿を続いてきている、また市民自治をしっかりと踏まえた上で、市民参加のあり方については時代の中で試行錯誤もしながら、さまざま形も変えながら取り組んできておりますが、基本的な市民参加、市民自治を市政の中にしっかりと取り込んでいくという、その思いは大切にしながら今後も取り組んでいきたいと考えています。
 私からは以上です。

再質問


○13番(山本あつし君)  余り昔の話ばかりするなと言われそうなのですけど、こういう言葉があります。湖に浮かべたボートをこいでいるように、人は、我々は、後ろに向かって未来に入っていく、後ろ向きに未来に入っていくという言葉があります。フランスの何とかという詩人の言葉ですが、後ろ向きに未来に入っていく。つまり逆に言うと、未来をこうやって振り返って直接見るということは絶対にできないです、誰にもできないです。直接、例えばあしたの野球の試合がどうなるかということすらわからないです。でも後ろをずっと見続けながら、それを見ながらボートは後ろに向いて、つまり未来に向いてこいでいるわけです。だから歴史を振り返るということは、そういう意味で非常に大事なことであるというか、それしかないというふうに僕は思っています。いたずらにどういう社会が来るかということを当てっこするような議論は、特に僕はこの時代は余りプラスにならないんだろうというふうに思っています。

 その市民参加とか民主主義とかいうことを繰り返し申し上げているのは、結局のところは、そのときそのときの人々の最善の選択によって次の世代ができていく。それはトランプの問題にしても、それからヨーロッパの、いわゆるイギリスの離脱の問題、EUの行き詰まりの問題にしても、やはり完全に一旦立ちどまらなければいけないところまで来ていると思います。それはトランプがいいとか悪いとかという話ではないです。これまでずっとやってきたことが、このままではいずれにせようまくいかないねというところに来ているというふうに思っています。

 高度成長からバブル崩壊を経て、30年の停滞期がありました。その中で次をどうするのかというのはわからないわけですね、わからない。わからないけど、現実的にみんなで協議をしながら、人の意識に基づいて最善の選択を繰り返していくしかない。トランプの問題も、中国との関係、ヨーロッパで今起こっている問題も決して一概に否定したり、あるいは一概にそれを肯定したりするという視点ではないというふうに思っています。これは両方とも理由があるのだということをきちんと捉えながら、次の選択はどうなるかということは注目していきたいし、私たちもできることを、最善の選択を繰り返していくという作業は続けていきたいというふうに、続けていかなければいけないだろうと思っています。

 そういう意味で、人々の意識とか、それを反映した市長とか、あるいは議会の考え方というのは、やはりそれはそれで大変大事な問題というふうに思っています。ですので、最初の話に戻りますが、いたずらに先がこうなる、あるいはこういう時代が来たということを言う前に、やはり過去を振り返って、きちんとその歴史を不断に検証していくということは大変大事なことだと思っていますので、そういう作業を共有しながら、継続をしながら進めていきたいというふうに思っております。
 質問になっていないので、以上です。