2019年6月ニュースを発行しました。
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武蔵野ふるさと歴史館のこと

 「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来に入っていく」(ポールヴァレリー)という言葉があります。
 歴史の理解は、未来を探る上で欠かせません。武蔵野市政の特徴を考える上では、市域だけではなく周辺地域も含め、その歴史を視野に入れることが必要です。
 6月市議会の一般質問では、武蔵野ふるさと歴史館の事業と役割について取り上げました。

 ふるさと歴史館

 武蔵野市立ふるさと歴史館(武蔵野市境5-15-5)は2014年開館、JR武蔵境駅から西に徒歩15分ほどの所にあります。市内の民俗資料の調査・収集、文化財の保護・展示、市政資料の保存・整理などを行なっています。
 歴史館の研究成果に学びつつ、私なりに市域の道程を振り返ってみます。

 縄文

 市内では井の頭池周辺の御殿山遺跡などから縄文時代の竪穴式住居跡が多数発見されており、土器や土偶、石器なども多く発掘されています。武蔵野台地の中でも湧水の得られる貴重な場所の一つだったことで、人々の生活拠点となっていたのです。
 縄文の後期より列島各地では稲作が広がりますが、武蔵野台地においては十分な水が得られなかったため水稲栽培が広がらず、市域においては江戸期に到るまでの長い間、集落が形成されることが少なかったと考えられています。
 人の生活と水のありようは、現在に至るまで不可分の関係です。市制施行後も市は人口急増期の水道水の確保に苦労し、深井戸の掘削、維持管理などの努力を続けてきました。

 玉川上水と新田開発、五日市街道

 江戸時代初期、1654年に玉川上水が開通。その後それぞれの経緯は異なるものの、吉祥寺、西窪、関前、境の4カ村が相次いで開拓され、市の原型ができました。当時関東平野各地で広範に行われた新田開発の一環と位置づけることができます。
 羽村から四谷まで築かれた玉川上水は、武蔵野台地の比較的高いところを選び、自然の高低差を利用して江戸市中に水を供給しました。
 その水利の一部を利用したこの地域の新田開発では、概ね東西に走る五日市街道の南北両側に農地と宅地が短冊形に配置されました。
 甲州街道や青梅街道沿いの府中や田無に、先行して発達した町が存在していたのと比べ、吉祥寺は野原を切り開いて村をつくったことが、東西南北に道路が整った現在の住宅地の姿につながりました。武蔵野市の基盤形成と上水の開削や新田開発は切り離せない関係にあります。
 江戸期には、武士の支配のもとで貨幣経済が急速に全国に浸透していきました。消費都市江戸の近郊農村として、この地域も社会の変化に影響を受けながら次の時代を迎えることになります。     

 住宅地としての発展

 武蔵野市が現在の人口規模になるには、いくつかの節目がありました。
 ひとつは関東大震災(1923年、大正12年)によって東京の市街地から焼け出された人々の移住です。次いで、中島飛行機武蔵製作所立地に伴う従業関係者の居住。そして戦後の高度経済成長に伴う郊外住宅地としての発展です。
 それらが、中央線敷設の結果であることは言うまでもありません。前身となる甲武鉄道は、1889年(明治22年)に新宿から立川までまっすぐに引かれました。この路線選定の理由ははっきりしないようですが、対象地が平坦で町が作られていなかったことなどが考えられます。別の路線が選択されていたら、この地域の姿は大きく違ったものになっていたでしょう。
 鉄道開通以降のおよそ70年程度で、いくつかのピークを経て、基本的に新しい住民による新しい住宅地が形成されたのです。
 またそれが、私鉄沿線にみられる駅を中心とした人為的な都市開発ではなかったことも特徴かもしれません。江戸期以来の住民との協働によって、この街は築かれました。

 人々の意識

 街はそこに住む人の意識を反映します。
 武蔵野市の発展の経緯を振り返るとき、現在のありようは、戦前に始まり戦後の高度経済成長によって生み出された日本社会の中間層と呼ばれる人々が主流となり、その意識が典型的に表れた街と言えます。
 1947年のポツダム政令によって禁止された町内会が、52年の政令失効後も市では復活されなかった事実は、当時の住民の意識をよく反映しており、現在の市のコミュニティーのありようにもつながっています。
 市が市民自治の進んだ自治体と言われてきたことや、吉祥寺が商業地として発展する中で比較的新しい文化を取り入れて人気となっていったことなども、市民意識の現れと考えられます。

 まちの将来

 まちの将来を予測することは、簡単ではありません。
 振り返ると、多摩東部地域における郊外住宅地としての発展は不可避だったとしても、この地域が現在のような姿になったことには、様々な偶然が作用しています。
 また、総体としての住民がその意識の反映としてまちの姿を作り、進化させてきました。これこそ市民自治あるいは民主主義と呼ぶべきものです。
 未来は手探りです。経験を踏まえ、市民自治にもとづき、与えられた諸条件のもとでその時々の最善の策を選択していくしかありません。それが、次世代につなぐ私たちの役割です。

 ふるさと歴史館の役割

 その不断の作業の中で、常に歴史を振り返り、現在の置かれた状況を謙虚に相対的に見直すことが大切です。
 ふるさと歴史館は、歴史関連の事業だけでなく、市の行政公文書の管理も進めています。また、中島飛行機武蔵製作所への米軍空襲の記録発掘なども優れた実績です。
 武蔵野市が、同館の事業を継続・発展させ、市民とその成果・価値を共有することは、未来に資するものと確信しています。